語り継ぐ、平和への願い。

 昭和20年8月1日の長岡空襲。長岡市は市街地の約8割が焼け野原となり、1、488人の尊い命が奪われました。
 あれから74年ー。今年も8月1日がやってきます。戦争を経験していない人が人口の8割以上を占める中、6月22日に行った長岡空襲の体験を聞く会では、殉難者遺族の松原和子さんが市内中学生や市民に向け、初めてその体験を語りました。

【問】庶務課 ☎39・2203

74年経っても消えない、戦争への恐怖。
黒い炭の塊を、姉とは思えなかった。

松原 和子さん(80歳)

空襲当時は千手国民学校(現・千手小学校)1年生で両親と4女1男の7人家族。母の影響で子どもの頃から映画鑑賞が趣味で、お気に入りのコーヒーカップ片手に映画を見るのが、至福のひとときです。


 みなさんは“雪しか”をご存知でしょうか。冷蔵庫がなかった時代に、畑に穴を掘り、ふたをして作った氷の貯蔵庫のことです。氷を切り出して商売した「雪しか屋」の屋号から、私の住んでいた長柄町(現・宮原周辺)では、そう呼ばれるようになりました。

防空壕(ごう)や防火演習では何一つ防げなかった

 小学校1年生の夏、8月1日の夜にあの悲惨な空襲は起きました。嫁いだ長姉を除いて、父、母、次姉、三姉、兄、そして私の6人で住んでいて、その日の日中もみんなで防火演習をしていたところでした。突然の爆撃により我が家に上がった炎を、バケツリレーでなんとか消そうと試みますがその勢いは強まるばかり。急いで逃げ込んだ家の裏手の防空壕にも、すぐに火の手が迫ってきました。これではダメだと思い、あの“雪しか”を目指すことにしました。しかしその時、忘れ物を取りに防空壕に戻ろうとした三姉の羊子に爆弾が直撃。羊子は片足を失ったため父が助けに行き、背負って遅れて逃げました。しばらくして私が振り返った時には、後ろ一面は火の海に。父と姉の姿はなく、もうどうすることもできませんでした。もしその時探しに戻っていたら、一家全滅だったでしょう。

片足がなかったことで、初めて姉だと思えた

 ようやくたどり着いた雪しかには、たくさんの人が集まっていました。軍人さんが、近くの畑に転がっていたかぼちゃを振る舞ってくれました。あの時代、ゆでたかぼちゃは大変なご馳走。「こういう非常時には、泥棒なんてのはない」と軍人さんが言い、みんなで食べ分けました。
 明け方、家族4人で家があった方向に戻ると、裏庭のあたりで父と三姉は亡くなっていました。父は服が焦げた状態。そして、服も顔の原形もない真っ黒な炭の塊を、母は泣きながら「羊子だよ」と言うのです。私は「ようちゃじゃない、ようちゃじゃない」と、その目の前に落ちているその塊を、姉と認めることができませんでした。ようやく姉と思えたのは、片方の足首らしきものがなく、姉が足に爆弾を受けたことを思い出したからでした。
 長姉の妙子は、夫と殿町で間借りをしていました。「もう、妙(たえ)はだめだろうね」と、母は言いました。ところが焼け野原のかなたから、小走りでこっちに向かってくる大きなお腹をした妙子の姿が見え、みんなほっとしてうれしくて、涙ながらに抱き合ったことを鮮明に覚えています。
 その後、その辺に散らばっている木片の上に二人の遺体を乗せて火葬しました。でもこれは、数年後に姉から聞いた話で、私には記憶がありません。そんな切なく痛ましい場面から、誰かが幼い自分を引き離してくれたんじゃないかと推測できます。

かぼちゃを切る時、雪しかの軍人さんを思い出す

 今となっては懐かしい思い出もあります。あの雪しかで食べたかぼちゃのことです。今でもかぼちゃを買うときは、一個丸ごと買います。なかなか包丁の刃が入らないかぼちゃと格闘するたびに、あの雪しかで会った軍人さんは、どうやってかぼちゃを切ったのだろうかと思いを巡らせるのです。
 また、73歳で亡くなった母のこと。
空襲のあと山ほどの困難を乗り越えてきたであろう母が、生前、兄に「おれさぁ、今すごい幸せだいや」とつぶやいたのです。その言葉を聞いた兄と私は、母以上に幸せを感じました。

◇     ◇

 戦争から74年が経っても、今だにその恐怖は消えません。世界では戦争がなくならず、文明の進歩で凶悪な兵器が開発され、今、世界戦争が起こったならば、この世には誰一人として生き残れないだろうと考えてしまいます。  今回、私が初めて人前でこの話をしたのは、お世話になった知り合いに頼まれたというのが本音です。ただ、この話が、特に子どもたちにとって、本当の意味での戦争の悲惨さを感じられる機会になったなら、幸いに思います。

長岡空襲の体験を聞く会で話をする松原さん(左)。平和学習で訪れていた南中学校2年生6人もメモを取ったり、質問したりして、真剣に聞き入っていました

「今すごい幸せだいや」、
その母の一言が救ってくれた

▲空襲後に残った唯一の写真。
殉難者で松原さんの父・新井虎男(とらお)さん(左)と三姉・羊子さん



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